
リスク
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2006/06/29up
未知の領域に足を踏み出すとき、試行錯誤ぐらいしか、方法はない。
それはリスクをとってみる、ということだ。焼けた鉄板に手をのばし、ほんとうに熱いのか、試しに触れてみる行為だ。毒かもしれないキノコを試しに食してみる。そのようなことだ。もちろん好奇心という強い動機がバックグラウンドに存在していたとしても。
生物は本質的にリスク回避的だ。
ところが哺乳類、とりわけ人間はリスクをとることがある。くらがりに怯えながらも足を踏み入れてしまう。そのことが人類の進歩を導いたことはまちがいない。リスクをとることがなければ、進歩はなかった。原始人のころからかわらなかった。もしかしたら生存競争に負け、滅んでいたかもしれない。
重要なのはリスクをとるのはごく一部の人間であったことだ。
その人間が死んだとしても大部分の人間はリスクをとらないことによって生き延びる。リスクをとるとき、人類はつねに保険をかけていたわけだ。そして、リスクをとったことによる利益は人類全体に(文化にとってかもしれないが)とって莫大な利益をもたらした。コロンブスの新大陸発見を例にとるまでもなく。
リスク回避的な性向は文化的に強化され得る。タブーという装置はまさにそういうものだ。暗闇を異化し、峠を異世界への入口とし、共同体の範囲を限定する。そのことによって共同体のメンバーは外というリスクから守られるだろうが、外からの利益はつねに稀人としてしか、もたされなかった。
たとえば、現代はまちがいなく西洋文化の強い影響下にある。
それは西洋文化圏がリスクをとり、外へと進出していった結果にすぎない。西洋がすぐれていた、東洋がおとっていたというのは安易な考え方だ。また、人種的な差位がそこに存在していたわけでもない。
たまたま、西洋圏にリスクをとり、成功した人間がいた。それだけの話だ。リスクをとる人間はごく一部であり、成功するのはその中のさらに一部で、そのような人間が西洋にいた。それだけだ。しかし、その成功は画期的な利益を共同体にもらし、拡大を強力に後押しした。それが起きなかった共同体との差は決定的だ。
そして。
西洋と東洋の最大のちがいはリスクを分散するシステムを生み出せたかどうかだ。
すなわち株式会社である。
本来、集団、共同体は大きくなるにつれ、保守的にならざろうえない。
組織を維持するコストが大きくなるからだし、集中管理システムは本質的に保守的なものだ。
株式会社は多人数より薄く資金を集め、リスクを分散し、個人ひとりではできないことを行なうことを可能にする。たとえば、新しい航路を見つけるための航海などのようなことは個人が(たとえ資産家であっても)ひとりで資金を提供するにはリスクが大きすぎる。その航海が成功するとは限らないのだから。どんなに富があってもそのリスクを背負うことはできなかっただろう。
それを個人で負える大きさのリスクまで小さくして資金を集め、航海という事業を成立させた。それが株式会社だ。資産家にとっては複数の航海に分散投資することが可能になる手段でもある。
そして、重要なのは株式を売買可能とする市場が生まれたことだ。
株式が売買できることによって航海が終るまで動かせなくなってしまった資産を動かせるようになった。換金可能になった。それはつまり、成功するか否かという丁半博打的なリスクを時間軸で分散できるようになったということだ。
リスクを分散することによって個人の負う一人当たりのリスクを低減し、そのことによって得られた利益を亨受できるようになる。
バブル期、日本はアメリカを抜き、経済によって世界の覇者となるといわれたことがある。バブル崩壊でそれは夢と消えたが、本質的にそれは不可能なことだったかもしれない。日本にはリスクをとるシステムがない。護送船団といわれる官僚主体のシステム(社会主義国家だと揶揄されるほどの)では先行者を追うのには有利だったかもしれない。道はすでにあり、問題なのは効率性だけだったのだから。
しかし、リスクをとらないシステムでは先頭に立てたとしても、未知の領域へは踏み出せず、結局、停滞してしまうしかなかっただろう。
参考図書
野口悠紀雄「金融工学、こんなに面白い」
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Takehiro Yamada