馬券から株式投資へ




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2006/02/12up



 株をはじめてみようかと思っている。


 東京テレビの某ニュース番組で、ニュースキャスターが最近の個人投資ブームについてこうのたまわった。
「利益をだしている人は全体の二割か、三割といわれていますから」と。
 おそらくのニュースキャスターは株で利益をだすなんてむずかしい、ということをいいたかったにちがいない。
 が、これを聞いたとき、ぼくはこう思ったものだ。
 ――なんて高確率なんだ!


 たとえば、馬券で勝つのはむずかしい。カジノで浮くのはほとんど不可能に近いだろう。それは基本的に確率的な問題で、はじめから負けてしまう構造になっているからだ。それは主催社が客を騙しているとか、いうことではまったくなく、客が金をだし、その中から主催社(カジノでのハウス側)が手数料、あるいは運営費として金をとり、その残りを客同志で取り合うというゼロサム構造に求めることができる。
 それから考えれば、二割が利益をだせるというのはなんと、夢のような話であろうか。


 重要なのは今、手元にあるお金は十年後には額面の価値はないということだ。
 たとえば、百万をタンス預金したとして。年率1%の物価上昇のもとでは十年後にはその百万円はざっと三十五万円ほどの価値しかないものになる。半額以下である。それを防止するには年率1%の定期預金にいれれば、よい。お金の流動性は失なわれてしまうが。
 しかし、物価上昇率と一致する、あるいは上回る年利をもつ定期預金は存在しえない。
 定期の年利自体が物価を上昇させる圧力になるからだ。
 つまり定期預金というのはある一定の確実なリスク(貯金したお金の価値が目減りしていくという)を引き受けることを意味する。


 手元の百万円が十年後に百万円の価値を持たないというのは、もしかしたらこの社会が不完全だからだろうか。


 かつてはインフレが常態であるという経済の観念がどうしても納得できなかった。生み出す価値と刷られるお金の量が一致していれば、物価は上昇しないはずだ、とそう思えてしかたなかったからだ。つまり、そうならないのはそうしない社会が悪い、と。そう考え、四十づらをさげるまでそのことを多少なりとも思考しなかった自分にたいして忸怩たる思いはある。一度、そのそばまで思考したことはあるのだが。そのときの結論は世の中が不完全だからだ、というものだった。
 自分の脳味噌が不完全だっただけだった。


 価値は目減りする。失なわれる。生み出された価値――たとえば、農作物は食されることによって消滅する。しかし、お金というものはそれにリンクして消滅するわけではない。だからお金を持つものは価値が消えないので、相対的につねに裕福でありうる。それがかつて考えた妄想だった。それを一歩、進めれば、世の中に存在する価値が減ったということはそれをあらわしているお金の価値も減った、ということだ。次に生み出されるものは当然にその価値の減じたお金との関係で、値段がつくので、去年よりもキャベツは高くなる。
 もちろん高くなるのはあくまでも値段であり、価値ではないのはいうまでもない。


 以上はぼくの不完全な脳味噌が生み出したただの個人的な妄想だが、物価の上昇はつねに起こるのだ、と視点をぼくにあたえてくれた。そうであるならタンス貯金、あるいは定期預金にすることはあまり得策ではないということになる。つねにリスクを引き受けるということは、たとえれば、つねにだれかに小突かれている、ということだからだ。簡単には承服できかねる。
 もしかしたら稼いだ金はつねに使い切るのが一番、正しい道なのかもしれないが。


 問題は自分の価値というものは、お金を生み出すことができる価値というものは年齢とともにおとろえていくということだ。減っていく。経済的には無価値になっていく。だからこそ老後の蓄えという考え方があるのだろう。
 果して存在しているのかどうかわからない明日のために。


 道はふたつあるように思える。
 百万円は十年後にも百万円なのだと額面だけを心のよすがにするか。
 百万円がすべて失なわれるリスクを負いつつ、何かに投資するか。
 後者にはすくなくともリスクを回避できる可能性が残されている。
 確実に負ける道よりはましなように思える。百%の人間が利益をだせないよりは。


 では何に投資するか。
 どうして株式なのか。


 偶然、ただの思いつきということを否定するつもりはまったくない。
 昔から興味がなくはなかったけれど、どうすれば、いいのかがまったくわからなかった。何をもって何を基準にして賭ければ、いいのか(投資は投機ではないという人もいるが、未来は不確定であるという一点で考えれば、投資も投機もギャンブルも同じだ。それは未来へ賭ける行為だ)。それがなくては、賭けるということはできそうにもない。
 競馬にはすくなくともシンプルともいえる基準がある。一着になる馬はどれか?
 それは速い馬であり、そのレースでもっとも調子のいい馬であるという。


 一年ほど前だったと思う。
 どこかのホームペーシで高校生のAくんが卒業旅行の資金をためるために、株式投資を行なう話があった。卒業のときまで、株価が充分、上がったときに売却してAくんは無事、卒業旅行へ行けました、と。株価は上下するのでありうるといわんばかりの話だった。卒業までは充分、時間があり、その間に一度ぐらいは株価が上がることもある、というのがその論旨だった。
 そんなことありえねぇだろう、とまで考えることはできたが、理由にまで考えが至らなかった。株をやろうとまじめに思考してようやく、わかった。株価は上下するという前提がおかしいのだ。株価は上がるかもしれないし、下がるかもしれない、というだけだ。上下するではない。下がりつづけることもありうる。


 経験し、経験から学んでいくいうことは絶対、必要だが、何のとっかかりもないというのに、賭けるというのはやはりむずかしい。


 もちろん、第三の道というのもある。
 投資信託だ。
 正直、ちょっとだけ調べてすぐに興味を失なってしまった。理由は簡単だ。投資信託というのは投資を委託することらしいからだ。投資信託を行なう人はプロだから素人が株をやるよりも確実だろう、という考え方なのだろう。素人はプロに食い物にされるだけなのだ、と。だから投資信託が一番いいという人がいても否定はしない。
 ただ、個人的には賭けるという一番おいしいところを他人まかせにするというのは性格的にあわないし、ほんとうに素人はプロに食い物にされているのだろうか、という思いがある。食い物にされているなら、個人投資家の二、三割が利益をだせているということは高すぎる割合だと思うからだ。


 他人に小突きまわせるのは嫌だ。
 自分の財布で他人に賭けさせるのはもっと嫌だ。
 そして、バリュエーションという考え方が存在していることも知った。


 ではやってみるしかないではないか。



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Takehiro Yamada