競馬放浪記(7)
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元旦一日から競馬は開催される、ということを御存知だろうか。
南関東だと、四地方競馬のうち、どこかで開催されることになっている。
1998年は船橋競馬場だったと思う。
ところが当日はみぞれまじりの雨であまりにも寒く、さすがに行く気にもなれなかった。Tさんのアパートで競馬を観戦することにした。まだ、TさんはSPATに登録していなかったが、衛星テレビで公営チャンネルを見ることができたのである。
ほとんど、競馬場に流されているテレビと同じ映像だ。
パドック、返し馬と見てぼくは遊びで一頭を選んだ。ちゃんと口にだしてTさんにいっていた。ひさびさにお金を賭けないで選ぶ行為だった。驚くなかれ、その日、行なわれたレースの中で――たしかみぞれで最終レースは中止になったので、十レースだったと思う――ひとつのレースを除き、選んだ馬はすべて三着以内にきた。
Tさんも驚いていたが、ぼくも驚いた。
そんなに当たるのなら馬券を買っていれば、よかった。
後悔してもはじまらなかった。
その年の最初の競馬は三日の船橋競馬だったが、最後の最後に負けてしまう。何か歯車が狂っているとは感じていたが、どうすることもできず、ずるずると一月は負け続け、負けたのはその一月だけはなく、その前の年も負け続けていたし、二月以降も負け続ける。勝ちこしたのは仕事をやめて馬券で喰おうとした最初の月――九月だけだった。
自分の馬を見る目がおかしくなってきているのか――。
まるで負けるために馬券を買っているような状態だった。
最悪なのは選んだ馬が四着にくること頻繁にあったことだ。複勝は三着までなので、馬券は紙屑になるが、馬を見る目もまったく外れているわけではないという状態。
どうすることもできなかった。
まったく手も足も出ない。
負け続ける。
三月には貯蓄が尽き、白旗を上げた。
半年と少ししか保たなかった。
もちろん、連敗してしまったことが一番の原因なのだが、博打を打っているうちに賭け金が上がってきてしまったことも大きな敗因でもあった。最初、2500円からはじめた金額が徐々に上がり、1万、2万へ。おそらく資金に限りがあるという認識がなければ、もっと上昇していたことだろう。抑えていた。事実、後年、一点10万の馬券を買ってしまっている。これは負けた金を取り戻すために、というわけではけしてなかった。快感のためだった。1000円や2000円の的中では満足できなくなってきていた。そして、痛みすら快感だったのだ。パンチドランカーのように、打たれることに快感すら覚えてしまっていた。
それなのに白旗を上げて三日後にはやはり、と競馬通いを続行することを決意しているのだから阿呆だ。
予備にとっていた――いざというとき、方向転換するときに必要な――準備金に手を出す。なんとか粘れたのも最初のうちだけで、負けがこみはじめて残金が三十万というところまで追いこまれてしまった。その間、三ヶ月。それだけ粘れたのは馬券の調子が悪くなかったということではまったくなく、単に競馬場に行く回数を減らしていたからにすぎなかった。
出費の中できついのは家賃などの固定消費部分だった。その部分が毎月、確実に削りとられていくからだ。その分くらいは馬券で補填できれば、と思っての馬券生活突入だったのだが。
その状態になっても再就職しようという気にはなれなかった。
就職しようとしてもどこか、働かせてくれる会社があるかどうかも不明だった。
そして、ぼくはパチンコ店へと出かけていった。
もちろん働くためではない。
小金を稼ぐためだったが、その日のうちに負けた。
下見のつもりだったのでパチンコに負けたこと自体はそれほど、ショックではなかった。
実はパチンコには必勝法が存在する。
ぼくが知っているその必勝法がまだ有効なのか、感蝕を得たかった。パチンコ雑誌をチェックした結果もどうやらまだ、有効らしいことがわかった。パチンコの機種には法律があり、極端にゲーム性がかわってしまうことがあるため、必勝法が必勝法でなくなってしまうことがある。たとえば、かつてのフィーバー台の登場とき、極端にゲーム性がかわってしまった。
デジパチに関しては確率にそった方法が存在していたし、事実、有効だった。
パチンコで小銭を稼ぎ、延命を図ろうというわけだった。
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