競馬放浪記(5)
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ところが収支がプラスになったのは最初の一ヶ月だけだった。
必勝本の類いはまったく信じていなかったが、座右にしていた本は存在する。
梶山徹夫という馬券師の「馬券で喰ってどこが悪い」という本がそれで、Tさんとぼくは尊敬をこめて筆者のことを「梶山さん」と呼んでいた。面識はまったくなかったが。のちに競馬場で何度も梶山徹夫本人を見かけている。
浦和競馬場ですれちがったときはぼくの顔を見て、あれ、こいつ、どこかで見かけたことがあるぞ、という表情を浮かべていた。
本の内容は景気のいい話は少ないが――それでも馬券師としてテレビ出演せざろうえなくなり、最後に百万円を一点賭けする話は感動的ですらある――、一年三百六十五日、馬券で喰うために、ひたすらパドックに通う日々の話が書いてある。その本で一番ために(?)なったのは関東では中央競馬の東京、中山、南4関東地方競馬の大井、川崎、浦和、船橋のどこかで毎日、競馬をやっているということだった(ただし、夏競馬の間は東京、中山はやっていないので、福島、新潟への遠征になるが)。
そして、もうひとつ。
パドックに立つ。
そのことが重要であることもその本が教えてくれた。
南関東の地方競馬、中央競馬と足繁く通いはじめた日曜の最終で横山ノリ騎手が穴馬をつれてきて馬連の万馬券を出した。その穴馬をパドックで見つけ、単勝と複勝を買ったぼくは翌日、大井競馬場で梶山さんを見掛けた。
めずらしくひとりではなく、連れとパドックから本馬場へ向かう途中の梶山さんだった。にこにこ笑いながら連れに話しているのが聞こえた。
「昨日、ノリが最終で見事に差してきて……」
まだ、梶山さんが中山のどこからパドックを見ているのか、知らないころだったが、それで昨日、梶山さんも穴馬券を取ったことを知った。たぶん彼は万馬券をとったのだろうと思う。その事実は――少くともぼくの馬を見る目がまちがっていないという自信を与えてくれた。
パドックの重要性は浅田次郎の「勝負の極意」という本の中でも述べられている。
そのことはTさんには劣等感だったらしく、よくパドックがわからない、とぼやいていた。パドックが見れるぼくを羨ましがっていたが、ぼく自身、本当に見れているのか確信はなかった。なんらかのバックグラウンドが欲しく、当時、関東リーディングだった岡部の四部作ビデオ――岡部がパドックを伝授するというようなコピーに引かれたのだ――を買ったりしたが、結局、それは何の役にも立たなかった。
たとえば、当時としては馬連最高配当金を記録した二十万馬券(二十一万三千三百七十円)が出たとき、ぼくはその場に居合せた。中山競馬場。日経賞。いつもの二階のベランダからパドックを見ていた。
横山ノリのローゼンカバリーがばりばりの一番人気だった。
たしかに他のメンツを見てもG1クラスの馬はなく、一番人気もしかたないともいえるオッズだった。
が、ぼくにはローゼンカバリーはかかりすぎているように思えた。まったく気に入らなかった。ぼくの中では切り。目につく馬は一頭だけ。関西からの参戦していたステイゴールド。当然、その馬へ単勝複勝で勝負した。
レースは最終コーナーを抜けたところでローゼンカバリーが好位外目から抜けだした。
それでそのままローゼンカバリーの勝利で終ってもしかたがないレース展開だったが、すぐうしろに江田照夫(!)騎乗のテンジンショウグンがいた。中山の急坂の途中でローゼンカバリーの足が鈍り、テンジンショウグンがあっさりとローゼンカバリーをかわした。そのローゼンカバリーを追う馬群の中にステイゴールドもいた。
ローゼンカバリーはいっぱいだった。
来いっ。
ステイゴールドは少くとも三着にはいる足色だった。
差せっ。
たぶん坂を上り切ったところでの出来事だった。一瞬でステイゴールド、ローゼンカバリーをかわす馬――加藤騎乗のシグナスヒーローだ。鋭い足でさらにテンジンショウグンに迫ったが、すでにそこはゴールだった。
それでもステイゴールドがローゼンカバリーをかわせば、複勝は的中だ。
来いっっっ。
ところがステイゴールドはローゼンカバリーをかわせず、複勝すら外れてしまう一番悔しい四着だった。
いつもなら喚きちらしたくなるところだったが、そのときは場内の雰囲気があまりにも普段とちがっていたため、そんな気分もふっ飛んでしまった。競馬場全体が呆然としていたのだ。的中を喚く声も飛んだ一番人気の馬を罵しる声も聞こえなかった。
妙な静けさの中、あちらこちらからぽつりぽつりと、これってすげー馬券じゃねーか、という声が聞こえはじめる。場内がざわつきはじめる。
ぼくはすぐに次の最終レースのためにパドックの所定位置へ戻った。
外れ馬券のことを気にしていてもしかたない。
審議もなく、すぐに着順は確定した。テンジンショウグン。シグナスヒーロー。ローゼンカバリー。ステイゴールド。やはり四着だった。
配当金が出た。
パドックの掲示板に表示された馬連の数字を見て一瞬、二万か、と思ったが、すぐに桁がちがうことに気づいた。うおおおおっ、という歓声が競馬場全体を揺がした。
いつもならパドックに戻ってきているはずの馬券オヤジたちの出足もこのときは鈍かった。
ふと眼下にパドックに戻ってきた梶山さんの姿が見えた。
ジャケットの内ポケットから馬券を取り出し、一瞥してから電光掲示板の結果を確認していた。それから大事そうに馬券をポケットに戻した……。
――とったのか……。
唖然とした。ため息がでた。
戻ってきた馬券オヤジたちは皆、興奮し切っていた。
すげーすげー××円分、買ってたら、という声から、だれも買ってないからこんな金額なんだよっ、と喚く負けおしみの声。まるで買っている人間は存在しないといわんばかりに喚き散らして回りに同意を求めつづけるオヤジがちょうどぼくの隣にきてしまった。
よほど、的中した人間がいるから配当がついているんだ、といってやろうかと思ったが、そこはぐっと大人になって無視した。あの男は取ったんだよっ、と梶山さんを指さしたらどうなるだろう、とは一瞬、考えたが。
ぼくとは反対側で隣になった男がよほど、腹が立ったのだろう。何か文句をいった。
瞬間、そのオヤジは声を荒げた。
「なんだとっ。じゃ、おまえはとったのかよっ」
「とったにきまっているじゃないかっ」
「嘘つくなっ。見せてみろっ」
男がオヤジに馬券を見せた。
オヤジが高笑いしてあざけった。
「一番人気の複勝じゃねーかっ」(複勝130円)
「あたりまえだろうがっ。あんな馬券、とれるやつが阿呆だっ」
狙ってとれるやつがいるわけはないというわけだ。
ところが。
狙ってとった人間がいることをぼくは知っていた。
最終レースのパドックに梶山さんの姿はなかった。
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Takehiro Yamada