人はある日、突然、小説家になってしまうことがある
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天国で君に逢えたら
ガンに生かされて
死がおとづれなければ、飯島夏樹が職業的な、商業的な(「天国で君に逢えたら」は発行部数からいっても商業的にはぎれもなく成功しているといえるが)小説家になれたかどうかはわからない。それはだれにとっても不明だが、飯島夏樹が小説家だったことだけはまちがいない。
人は一生のうち、少くとも一本は小説が書ける、といわれる。
飯島夏樹はまさにその好例のように思えるだろうが、そんなたわごと、信じない方がいい。真っ赤な嘘だからだ。人は一生で、というその言葉にはその人の人生はだれのものにも似ず、小説は人生を書くものだというニュアンスがある。たしかにひとりひとりの人生はその人固有の時間だけれど、小説として成立させることができるか、どうかは別問題だ。ひとりひとりの人生は十分に一本の小説として成立することができるほど豊富な題材に満ちているにもかかわらず。
人はある日、突然、小説家になってしまうものなのだ。
プロウィンドサーファーの飯島夏樹が闘病生活の中で、闘病記を書くことに挫折して小説を書いてみよう、と考えた瞬間、彼は小説家になったのだ、といえる。それは奇跡的なおとづれであり、天啓ですらある。あとは書いていく過程で様々な技術を発見していったのだろう。それは不思議な陶酔を伴う経験でもあったはずだ。
――おそらく。
個人的な理由により今だ「天国で君に逢えたら」を読めないでいるので、おそらくだ。
けれどエッセイの「今日も生かされています」は読んでいた。
誤解のないようにいっておくが、「天国で君に逢えたら」が有料コンテンツだから読んでいないわけではない。
「今日も生かされています」の中に、飯島夏樹が九死に一生を得たエピソードがある。
この一遍は飯島夏樹がまぎれもなく小説家――作家であることを、はからずも証明してしまっている。おそらく飯島夏樹は凡百の小説家志望が越えられないでいるハードルを軽々とクリアしてしまっている。そのエピソードは飯島夏樹の視点からではなく、癌細胞のニックの視点で書かれているのだ。その選択がなければ、その一遍のエッセイに不思議な透明感と悲しみを感じさせることはなかっただろう。
そのエッセイを読んだとき、はじめてぼくは飯島夏樹を小説家として認めたのだ。
そして、いつか、「天国で君に逢えたら」を読むことだろう。
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Takehiro Yamada