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デッドストック




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 すっかり贅肉だらけになってしまった。
 身体のことばかりじゃない。
 生活そのものもまた、贅肉だらけだ。それに気づいたのは今回の引っ越しでだった。薄々と感じていたが。どうやら人は生きているだけでいろいろと余分なものを身につけてしまうものらしい。引っ越しの荷物の量には本当にげんなりとなってしまった。
 もっとも、荷物といってもその大部分は本だった。
 格別の本好きというわけではないのだが、運んでも運んでも部屋の隠れた場所から本がでてくる。どういうわけだ?
 上京したばかりの二、三年はこんなことなかったよなぁ、と思ったが、よくよく考えてみると、その頃は読んだ本を片っ端から実家に送っていたのだった。そして、ひさしぶりに実家に帰省してみて驚いた。実家が本の重みで傾いていたのだ。それからはさすがに実家に送ることもはばかられ、自分で所有するようになった。
 それが積り積ってちょっとした量になってしまったというわけだ。
 何年か前に実家からマンガだけでも、と送ってもらったことも量が増えた原因のひとつ。小説――ほとんどが文庫本だが、そちらは実家に預けていた分はすっかり処分されてしまった。処分するぞ、といわれたときにはさすがに嫌とはいえず、おかげで実家に帰る理由もなくなった。処分された中に貴重な、第二期「奇想天外」全号がまじっていたのだが。つくづく残念だ。


 今でも不思議なのは処分するといってたぶん、古本屋――BOOK-OFF?――に売却したと思うのだが、その売却したお金はどこにいったんだろう? もらったおぼえがまったくない。


 まぁ、いい。
 そんなことより問題はアクセスしなくなった情報は保存しておく価値があるか、ということだ。
 本もそうだが、レコードもあるのだ。
 今はもう聞くための、プレイヤーそのものが手元にない状態なのに、所持しているのはなぜか。無駄と思いつつも将来、プレイヤーを買う可能性を考えているのがひとつ。手放してしまえば、おそらく二度と聞けなくなるだろうからだ。本当は処分するつもりでレコードをチェックしてみて――アランパーソンズ・プロジェクトの最初のアルバム、「エドガー・アラン・ポーの世界」を見つけて(すっかり忘れていた)考えこんでしまった。そうなのだ。手放してしまえば、アクセス可能性はゼロになってしまうかもしれない。手元に残しておけば、いつか、再び、アクセスすることが可能になる……でもなぁ。忘れてしまったのだよなぁ。そういう意味ではアクセス可能性は限りなくゼロに近い。
 経済的なコストを考えれば、保存することは無意味だ。
 が、丸山健二の著作を前にして戸惑ってしまう。
 ここ十年ほど、上梓された丸山健二の本はほとんど買っている。「惑星の泉」から最新作の「鉛のバラ」まで――それを手放す。考えこんでしまう。たとえば、「水の家族」「野に降る星」などの作品にはどうしても愛着がある。しかし、手放すべきなのだろう。また、読むことがあるとは思えない。


 手放してしまえば、読んだことさえ、忘れてしまうかもしれないが。


 痛みはある。



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Takehiro Yamada