
バドーは生きた人形である
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バトーは生きた人形である。
腕も脚も、その身体のすべてが造り物。
残されているのはわずかな脳と、
ひとりの女性の記憶だけ。
「イノセンス」予告編より
「生きた人形」には「サイボーグ」とルビがふってある。
それがゆえにバトーの視界はコンピュータ的な画像である。中華風のカーソル――おそらくバドーが注視している部分――があてられると、そこの部分がズーミングされる。アールド・シュワルツネッガー演じるターミネーターの視界にDOSのコマンドラインが流れていくように、それでマシンの視界を表現している。
たまたまインターネットに流布されていた「イノセンス」の予告編を観る機会を得、CGを多用したそのあまりにも鮮明な映像に驚きを覚えたものだった。
予告シークエンスのメインにはバドーが襲われるシーンが選ばれていた。
雑貨屋で銃撃されたバドーは被弾しながらも撃ち返す……そして、逃げていく襲撃者たち。その映像がふいに荒れた――ドットが処理できず、輪郭がモザイク状にぼやける。
激しい動きのためにパソコンのCPUのパワー不足で再生処理が追いつかないのか。
まいったなぁ。
やはり動画再生を行なうにはパソコンのパワーが足りないのか。
そう思っていた。
何度か見返すうちに、そうではないことに気づいた。
モザイク状に輪郭がぼやける荒れた映像。
それはバトーの視界がそうなったという――被弾し、傷ついたがゆえに、バトーのCPUの処理が追いつかなくなったという表現なのだった。
映画館で観たのであるなら、まちがいなくバトーが傷ついたゆえの、表現だ、と瞬時に了解していただろう。けれど、CPUのパワーが足りないかもと心配しながらパソコンで観たその映像はぼくにそう、了解させることはできなかった。
そのことを作者である押井守が制御可能だろうか。
不可能だ。
小学校の国語の授業でよく聞かれたものだ。
――作者のいいたいことは何か?
そこには作者は作品を制御できるという神話がある。
たとえば、テレビドラマ「沙少妙子〜最後の事件〜」で次のようなシーンがある。
男がひたすらワープロに向かって文字を打ちこんでいる。
カメラがそれに近づき、ディスプレイをアップにする――そこには同じ文言が延々とくりかえされていた……。
男の狂気を、不気味さを表現しているシーンだ。
ぞくり。
ところがこのシーンに、ぼくは苦笑してしまった。
ひとつにはスタンリー・キューブリックの「シャイング」からのパクリということもあるのだが、最大の要因はワープロに打ちこんでいたことだ。
実は同じ文言を繰り返して入力することはワープロの得意とすることなのだ。
カット&ペーストであっさりとできてしまう。
なので同じ文言が延々と入力されていてもちっとも不気味ではないのだった。それどころか、ぼくはこんなことまで考えてしまった。
わざわざ狂ってるふりをしてるんだなぁ、と。このシーンを用意した裏方さんは「シャイニング」にくらべたら楽だったなぁ、とも。
「シャイニング」でくりかえし入力されていたのはタイプライターだったのだ。
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Takehiro Yamada