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人と人はわかりあえない




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 イラク空爆の前後だったと記憶している。
 御前崎からの帰路、カーラジオからパーソナリティがイラク空爆について意見をのべていた――戦争反対だと。空爆を行う前に、話し合うべきではないか。話し合えば、わかりあえるはずだ。
「私たちには言葉があるのだから」
 こんなときだ。世界の中心に向かって爆弾を投げこみたくなるのは。


 イラク空爆について、いいか、悪いかについて語る言葉はぼくにはない。その件に関してはほとんど無知に近いからだ。空爆の前に話し合わなかったかどうかすら知らない。話し合おうとしたのではないか、と推測はしているが。空爆をするにしても世間的なコンセンサスは必要だからだ。話し合おうとするポーズぐらいはとったのはまちがいないところではないか、とは思っている。


 世の中にはいろんな人がいてその中に「人と人はわかりあえる」と思った人がいてもおかしくないし、そのことを否定するつもりはまったくない。


「わかりあえる」というときのニュアンスは次のことを示していると考えられる。互いに100%情報の交換が可能である、と。つまりわかりあえるか、どうか、というとき、100%の情報の交換が可能か、という問題に変奏できる。


 このとき、いや、そうではないんだ、95%でも情報交換可能でも「わかりあえる」というのであれば、ぼくも「わかりあえる」とうなずくだろう。ただし、そのときはぼくは「人と人はコミュニケート可能である」というだろうが。


 100%の情報の交換が可能か、と問題が設定できれば、答えはおのずと決定している。不可能だ。そこに主義主張が入る隙間はない。原理的に不可能だからだ。不可能の証明は二通り考えられる。東浩紀の「存在論的、郵便的」という本から引用するならひとつは「ゲーデル的脱構築」(存在論的)、もうひとつは「デリダ的脱構築」(郵便的)ということになる(「デリダ的脱構築」もまた、ゲーデル問題としてとらえなおすことは可能だとぼくは思っているが――)。


 情報の交換は二者間における通信である、と規定できる。
 AからBへ経路x1を通って手紙がだしたとしよう。手紙y1は届く。しかし、それが経路x1の途中でだれかによって改竄されたか、どうかはBには不明だ。認識できない。では手紙y1の同一性を証明するためにAはBへ経路x2をつかって手紙y2を届けたとしよう。Bはy1の内容は真であると判断できるかもしれないが、手紙y2が改竄されていないどうかについては認識できない。そのため、ある確率のもと、y1の同一性は証明できない。なぜならy2の同一性を証明するためには、y3を必要とし、y3はその同一性を証明するためにy4を必要とするからだ。


 AからBへ経路x1を通って手紙がだしたとしよう。手紙y1は届かない。BにはAが手紙をだしたのか、ださなかったのか、不明だ。認識できない。では手紙y1の到達性を証明するためにAはBへ経路x2をつかって手紙y2を届けたとしよう。しかし、y2も届かなかった。Bにはy1とy2の存在を知ることはできない。さらにAはy2をだしたことを知らせるためのy3を……。


 充分だろう(上記のふたつはいずれに「デリダ的脱構築」。「デリダ的脱構築」は二つの側面をもっている)。
 情報の交換――コミュニケーションはつねにある不確かさを含む。前者は電子メールなどはPGPをつかえば、クリアできる問題だろうという人があるかもしれない。技術的な問題だろう、と。そうではない。なぜならPGPを使用すれば、天文学的確率でしか発生しないというだけの話だからだ。(念頭にあるのはハッシュ関数のコリジョン問題だ)
 後者は、我々は届かなかった手紙は出されなかった、として生活しているから通常、気づかないだけだ。しかし、そのデッドストック性はつねにコミュニケーションにはついてまわる。

 つまり。
 人はコミュニケーション可能だが、わかりあえない。



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Takehiro Yamada