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遊びと仕事と労働と




(c) Copyright 2004 Takehiro Yamada . All rights reserved.



 十年ぐらい前だったと思う、先輩が次のようにいっていたことのを聞いたことがある。
 ――仕事に楽しみを求めるな。仕事なんだから。
 直接いわれたことでもなかったので心の中で肩をすくめただけだったが、今ならもうすこしちがったことを思うだろう。
 仕事がつまらないことにたいするエクスキューズとしては最低だな、と。


 学生のときの知り合いが自分の喫茶店を持ちたいなどとのたまわったときもぼくは心の中で肩をすくめていた。自分の城なんだぜ、といわれても理解不能だった。それはおもしろいのか?
 店を持ちたいという想いの中におもしろさという価値基準は含まれてないような気がした。あこがれ。持ったらすばらしいだろう、という考えは透けて見えたが。


「サラリーマンにならなくてよかったよ」
 ある小説家がいった。
「人に頭を下げなくてすむからね」
 このときもぼくは心の中で肩をすくめていた。挨拶で頭を下げるぐらいは普通だろう。サラリーマンが人に媚びなければ、いけない、ということはまったくないのだがな。


 フリーランスで仕事をしていることもあって明日のことなど、不明な日々を送っているが、仕事がなくなり、干されて貯金を食い潰したとき、どんな仕事でもやれるだろうとは思っている。バーの皿洗いであってもかまわない。食わなくていけないのなら、どんな仕事でもやるだけだ――たとえ、その仕事はぼくの定義で労働としか、呼べないようなものであっても。
 労働というのは経済学の用語でしかない(そうだよな?)。
 その意味は金銭と交換可能な一要素のことだ。だからその中にはおもしろさや、楽しみは含まれない。どんな仕事であろうと、対価が払われる限りにおいて労働という要素はある。仕事をやっていけば、その労働という要素を苦痛に感じることも多い。だから遊びを仕事にしたくない、などというエクスキューズが存在するのだが、そのようなエクスキューズをのべる人が、仕事は本来、苦痛なことなのだ、という。理解できない。彼らはこういうのだ。仕事でお金を稼いで遊びで楽しむ、と。
 ぼくはこの考え方には否定的だ。理解することを拒否してしまうほど、否定したいくらいだ。そのことを人に押しつける気はまったくないが。
 仕事は労働と遊びの間に位置している――というよりも経済的価値観と快楽的価値観の両軸の交点に存在している。仕事というものは程度差はあれ、おもしろいものなのだ。ない場合は単なる労働というべきだろう。
 結局、仕事がつまらないのなら辞めれば、よい。それだけの話だ。その選択肢をぼくらは保持している――その点が奴隷との完全なちがいなのだから。
 これはフリーでやっている人間だからいえることだろうか?
 そうかもしれない。
 そのかわりに、経済的に縛られ、労働のみしかない奴隷のような立場になる可能性も保持しているのだ。


 以上の話の流れだと、リスクはあるにしろ、フリーランスはいい、と聞こえるかもしれない。すくなくともぼくがそう思っている、と。
 ところが逆だ。
 フリーの立場になってほぼ、十年がすぎたのだが、仕事がおもしろくなくなってきた。理由はわかっている。フリーランスでいる限り、新しい仕事が入ってきたとしてもどうしても同じ場所をぐるぐる回るようなものになってしまう。レベルが変化しない。同じことのくりかえしは快感を減少させ、苦痛は増大させるものだ。組織の中にいれば、ちがうレベルの仕事をやれる可能性があるが、フリーにはそれがない。
 予感がする。
 近い将来、今の仕事――職業そのものを投げ出してしまうのではないか、という。



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Takehiro Yamada