フリーウェア
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フリーウェアの定義についてずっと違和感があった。
DOS時代からいろんなフリーウェアを使いながらもこれがフリーウェア? とか、たびたび思っていたし、製品として販売されているVzエディタはぼくにとってはまぎれもなくフリーウェアだった。それは値段が廉価であるということでそう感じているのではないのもあきらかだった。
――何だろう、この感じ。
その疑問が解消されたのはリチャード・スツゥールマンのFSFの宣言文(だったと思うけどちがうかもしれない)を読んだときだった。ちなみにスツゥールマンはオープンソースとフリーウェアはちがうんだ、といっている。それについてもほぼ、ぼくも同意見――というよりスツゥールマンに完全に感化されている。
で、フリーウェアだ。
フリーウェアを語るとき、比較対象としてあつかわれるのがシェアウェアであり、パブリックドメインソフトであり、通常の製品としてのソフトウェアだが――このときの比較軸としているのはソフトの値段だ。実はこの考え方が問題なのだ。フリーウェアは只(ロハという意味)のソフトという意味ではないからだ。少くともぼくの感覚はそうだし――そのことに気づかせてくれたのが前述のスツゥールマンの宣言文だった。
フリーウェアのフリーは「自由」という意味だ。
たしかに「自由」と「只」はほぼ同じ意味に感じられる――英語では同じ「フリー」という言葉だし――が、同じことを意味しない。むしろ同じに感じられるということはぼくたちがいかに経済的価値観に束縛されているか、を意味している。
ではソフトウェアが「自由」とはどういうことなのか――。
「カスタマイズ性」だと思う。
あるソフトの動作をカスタマイズすることがどのくらいできるか――それが問題なのだ。GUIが基本的に不自由に感じてしまう原因はそこにある。多くのGUIソフトでは用意された(おしきせの)カスタマイズの幅しか、カスタマイズできない。たとえば、テキストデータを表計算に読みこませて加工し、文書ソフトにとりこませる――という作業はGUIではしこしこと手作業で行なうしかないが、UNIXのシェル環境ではシェルスクリプトでひとつのコマンドとしてしまうことができる(これは大雑把にいってます)。UNIXはけしてフリー(ただ)のソフトではないけれど、フリー(自由)と感じさせるのはそのせいだ(他にもいっぱい理由はあるが)。
そうやって考えてくるとVzエディタがフリーウェアと思えてしかたなかったも道理だ――Vzエディタのカスタマイズ性は異様に高かったからだ。マクロ機能がきわめて充実していた。おそらくエディタの中ではEmacsにつぐカスタマイズ性の高さではなかったか。
では最大のカスタマイズ性とは何か。
それはソースコードをいじれることだろう。
どんなソフトであろうと、ソースコードをいじることができれば、カスタマイズ性は最大になる。GNUがソースコードのありかを公開することを前提としているが、それはフリー(自由)を最大限にするための手段だろう、と思う。
だからオープンソースとフリーウェアはきわめて近い位置にある。そして、分水嶺は個人の能力にある。ソースコードが公開されたとしてもそれをいじることができる人間は限られる――それはプログラミングの知識の有無もあるし、コンパイル環境を所有しているか、かどうかという点にも依存する。
そうなのだ。
かつての古いUNIXにはコンパイル環境が同梱されていたのに、今はそうではない。
スツゥールマンがEmacsの次にgcc――コンパイラーを開発したのはまさに自由を確保するための方法だった。
余談だが、あるインタビューで「一番重要なソフトは何?」という問いに、スツゥールマンが「コンパイラ」と答えていて、にやりと笑ってしまった。インタビューアーは「OSじゃないのか」とコメントしていたが、Linuxにしろ、コンパイラがなくては動くものにすることはできないのである。もちろん、スツゥールマンがLinuxにたいする嫉妬がまったくないとは思わないが、「コンパイラ」という答えはまさにスツゥールマンらしい、と思う。
インタビューアーはそのあたりがわからなかったらしい。
まぁ、スツゥールマンも――正確にはGNU?――OSをずっとつくろうとしているけれど(GNU Hardですな)。
そういえば。
「なんでWindowsではなく、FreeBSDを使うの?」
かつてたずねられたとき、ぼくはこう答えた。
「最悪、何かあったとき、Windowsはどうすることもできないけど、FreeBSDはソースを修正できるから――能力的にできるかどうかは別として」
「そうするとプログラミングができない人には意味ないじゃない」
もちろん、そうだ――と答えたかったが、人間関係を考慮して何もいわなかった。すべての人がプログラミングできれば、何の問題もないじゃないか、というセリフもふくめて。
この会話をかわしたとき、まだ、スツゥールマンの宣言文は読んでなかったので、うまく言葉にできなかったこともある。
「自由」というのはきわめて個人的な体験で、人によって感じ方もちがう。
サラリーマンを不自由と感じる人間もいるだろうが、逆に組織に属していることによって自由を感じる瞬間を持つことができる人間もいるだろう。
だからフリーウェアをどんな風に感じるかは人それぞれなのだろうが、値段という側面からだけ見ることは勘弁してくれると、ぼくはとても心穏かだ。
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Takehiro Yamada