死、あるいは神話についての覚書
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個体的な死は存在しない。
死の瞬間に個体は失われてしまうからだ。意識の総体は失われる。記憶は失われる。映画「ブレード・ランナー」でのラストのクライマックスでの敵レプリカントのつぶやきを見よ。ぼくらはだれひとりとして同じ記憶をもっていない――。空間の任意の一点に同時に存在することが不可能な以上、それは当然だ。視点がちがえば、見えるものはちがう。
つねに唯一無二の存在なのだ。
少くとも始原よりの滔々と流れるエネルギーの流れがあり、ぼくらはその一部として生じ、意識を持つ。この一部をどのように見るかは個人の性格が反映されるようだ。ある人は流れの表面に生じる波がわれわれだ、という。あるいは笠井潔は流れが石にぶつかってはじけた水飛沫がわれわれだ、という感覚を持っているようだ。全体から切離された個というイメージ。
――我々はどこへ行くのか?
問われた問いにどう答えるか。
――死へ。
虚無主義的に答えるのは簡単だが、はたして我々は死にたどりつけるのか? 触れることができるのか?
死の瞬間、個は失われるのだ。その絶対性の前に我々は畏れ戦くしかない。ゆえに死後の世界を我々は必要とする。死後の世界の在り方が現世のフィードバック、あるいはゴールとして存在していることに注意する必要がある。我々は現在からしか、ものごとを見ることができず、触れることができないものに関しては理解することができない。語る言葉を持たない。それを語ろうとするとき、現世との関連でしか語ることができずに、内面化される。そうして語られたことは結局、触れることができないもののことではない。
たとえば、神に触れたか、と思えるほどの至高体験は確実に存在する。
それが脳内麻薬が見せる幻だったとしてもその実在感に誤りはない。体験は存在するのだ。
が、それが語られ、個をこえて共有された(その残骸だけだが)とき、その体験は神秘体験に読みかえらる。個の体験が共同体の体験に敷衍されたとき、第三者的に存在するかのようにあつかわれてしまう。
神話とは個人的な体験を無記名化し、抽象、集合化し、共有したものだ。共有された瞬間、それは社会性を帯びる。それは社会を規定するものとなる。我々はギリシャ神話を夢物語と感じるが、ギリシャ神話の時代にはそれは現実にそこにあるものだったはずだ。
ユングによれば、UFOは現代の神話だという。
これは又聞きなので――ユングの著書で直接、読んだことがないので――どういう意味でいっているのかは知らない。が、こうはいえるかもしれない。UFOそのものが神話ではないということだ。神話はその解釈にある。UFOの意味に神話は存在する。エイリアンの乗り物とする解釈――物語が、高度なエイリアンの存在を裏付けることになる。おそらくギリシャ神話の中にはUFOは存在しないだろう。再解釈の結果、実はUFOなのだ、といういいかたはされるかもしれないが。それもまた、神話の力なのだ。
正直な話、ロラン・バルトの「神話作用」を読むまで、現代に神話など存在しないのだと思っていた。それはぼくの中で神話というのは夢物語のようなものだと思っていたからだ。ギリシャ神話のように。
UFOが現代の神話だとする考え方にも首を傾げていた。
UFOは個人的な体験にしかすぎない、と――共同体が失われてしまった現代ではそれは神話になりえない、と。共有されていない。田中光二の「君は円盤を見たか?」のように、個々人が持つ神でしかない、と思っていた。
神話は夢物語という影に隠れてたしかにそこにある。
それはぼくらを規定する。
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Takehiro Yamada