
書くという体験
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太宰治の「人間失格」ではないが、「書く」の反対語は何だ?
――「読む」か?
「生きる」の反対語は「死ぬ」か?
文盲の人にとって「書く」という行為は想像を絶っすることだろうが、通常、だれにでも書くことはできる。文盲の人にとっても「描く」ということは可能だ。
何かを参照しながらにしろ、書くということは自分の中にあるものを外在化することだ――記憶している知識の組み合わせを他者に伝達可能な形にすることだ。それは会話とは微妙にちがう。発話は瞬間的には「書く」ことかもしれないが、キャッチボールが発生しはじめた段階で「書く」ことからは離れていく。大雑把にいって会話は「反応」だからだ。書かれたものについて語ることが書くこととは大きく隔たってしまっているように。
書くことは書かれたものが読まれることを期待しつつも投げ出してしまう行為だ。
読まれる以前に書くという経験は終了している。唯一の例外をのぞいて。
では「読む」という行為は何か?
単純にいえば、書かれたものを解読する作業だが、それは強制的に自分の中の知識を参照させられる経験でもある。書かれた内容を読むことによって再構成するとき、それは自分の中の知識を再構成しているのだ。書かれているものはその「指示」にすぎない。指示され、それが新しい組み合わせ――知識に到達したとき、それははじめての体験として了解される。
ロールシャハテストは「読む」ということのあり方を露呈させる。
我々は無意味からも読もうとするのだ。読むという行為が意味を抽出する。
ゆえに読まれたものと書かれたものは等号で接続できない。
書かれたものは「指示」だ。そこに中身はない。Windows においてショートカットが他のファイルへのリンクにしかすぎないように。ショートカットとしての実体はあるが、中身はない。
書かれたものを参照する「指示」が存在するとき、書かれたものは中身があるように擬態される。正確には読まれた書かれたものへの知識へのリンクだが。習慣的に読まれたものと書かれたものは等号で接続されていると仮構されているので、書かれたものは中身を持つ(あるいは持つように見える)。
このことは次のように言い換えることができる。
だれも書かれたものに直接、触れることはできないのだ、と。
作者もまた、その例外ではありえない。
余談だが、言葉はすべて「指し示す」ものでしかない。
たとえば、「登場人物が動きはじめた」と作者が述べることがある。「小説は生き物だ」とも。これらのセリフは通常、作者は作品に対して神の立場にいると考えられるが、そうではないことを示している。作者は――プロであろうが、アマチュアであろうが――書く内容を考え、どう書くかを計算して書く。そうである以上、それ以上の、あるいは予想もしない内容が出現することはありえない。ありえないはずなのに、それはふいに出現する。計算ちがいなどという矮小なレベルではなく、あるいは計算ちがいすらも飲みこんでしまう形であらわれることがある。それは説明不能な新しい体験だ。感動的ですらある。
自分の中にすら外部は存在する、ということができるかもしれない。
では「書く」という行為は何か?
それは書かれたものがないにもかかわらず、「読む」ことだ。書くという行為がフィードバックとしての読む行為を強いるのではない。書かれたものがないにもかかわらず、「読む」ことが「書く」という行為の総体なのだ。
「読む」行為が書かれたものをつむぎだす。
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Takehiro Yamada