博打考3
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早漏は嫌われるそうだ。
博才などないことは承知している。
麻雀、パチンコ、競馬と、日本で許されている博打をやったことはあるが、パチンコをのぞき、正直、戦績はかんばしくない。パチンコの成績がそこそこなのはパチンコという博打が博打ではないからだ。あれはゲームにすぎない。その証拠に勝負所というものは存在しない。やり方さえ、まちがえなければ、勝てる。そういうものだ。パチプロというものの存在――その数の多さを見れば、わかる。あれは喰えるゲームだ。
麻雀にも多分にそういうところがある。
ゲームの腕が勝敗を分ける。
競馬はさすがにそうはいかなかった。
競馬がかなり不利な博打であることは書いたことがあるが、勝つための、浮くための方法、システムをさがしていた。そんなものはどこにもないのかもしれない――存在していたらそれは博打とは呼べないだろう。
ないかもしれないものをさがしていたのはなぜか?
博才がないことを自覚していたからだ。
勝負所をあやまたず、飛ぶことができる才能。博才とはそういうことだ。株で売りのタミングをぎりぎりまで待ち、売り抜ける才能。そういうものだ。
凡人は売りあやまる。ぎりぎりまで待てない――早漏は嫌われるのだ。
自分が凡人にすぎないことなどとっくに気づいている四十代だ。
そういう人間が博打で勝つにはやり方を見つけるしかない。パチンコのように。つねに同額を賭け、機会を均等化し、勝ったり負けたりしながらもトータルでは浮いている。そういうやり方だ。
しかし、見つけたと思っていてもかならずそれが裏目になる時がくる。
そして、ぼくはボロボロになる。
カシノの常打ち賭人の森巣博がいうには勝つときには厚く張り、負けるときは小額で打たれ越すというのが、勝負の方法だという。
この方法は論理的であると同時に実現不可能な要素を含んでいる。
いつ厚く張るのか――ということに関して何ものべられてないのだ。そのことは森巣博自身も承知していることだが。
いつ張り駒を変化させるか。
そのタイミングをまちがわないのなら浮くだろう。が、それを毎回、まちがえずにいることは不可能だ。現在は過去のくりかえしではない。くりかえしのように思える瞬間もあるが、そうでない可能性も同じぐらい存在する。未来は不確定だ。
一過性の現在をどう判断するか――。
博才がないそんな人間が勝負所で勝負することにした。
結果は最初から――横から見れば、馬鹿じゃないの、博打で喰えるわけないじゃん、と当然のことのようにいうかもしれないが、そんなことは承知の上での賭けなのだ。愚かさは承知の上での賭けなのだ。
サラリーの四分の一ぐらいを一点で1レースに賭ける(笑ってしまうぐらいオッズが変化した)。
そういうことを十回ぐらいやってみた。
そして、ボロボロになりながらわかったことがある――やはり博才はない、と。自分がいかに早漏なのかも了解した。と同時に、そうでない人間はいるかもしれないが、おそらくいないだろう、ということも。不可能に賭けるという行為の重圧に耐え切れる人間など、存在しないだろう、と。
人が――つまり自分のことだが――負けるとわかっていながらも、楽になりたいために、重圧から逃れるだけのために、サラリーの四分の一もの金を賭けてしまうとは思わなかった。一度だけではなく何度も。
世の中には経験しなければ、わからないことが存在する。
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Takehiro Yamada