
至福の時
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カツンとスケグがリーフにヒットする音がした。
哲也は思わず、スピンアウトを予感して身構えたが、スケグはグリップを失わなかった。ウィンドサーフィンのボードはフルプレーニングしたまま、ビーチに向かって海面をかっとんでいく。
前方にみえるビーチでは賢一郎が海から上がろうとしていた。
哲也はブームから左手を離すとワンハンドセイリングで手首のダイバーウォッチを見た。十一時半。
タイムリミットかな。
そう思った瞬間、再び、スケグがヒットした。
哲也は左手をすばやくブームに戻した。その瞬間、スケグがグリップを失った。ボードが一気に横流れした。対処する間もなく、風下側のレイルがチョッピーな波に食われ、哲也は空中に放り出されていた。
「ぎょええ!」
哲也は海から上がるとボードをひっくり返した。
リーフにヒットしたスケグを見る。折れたり、もげたりはしていない。エッジに白く傷がついているだけだった。
一安心し、ボードとセイルを賢一郎のボードのところまで運ぶ。白い砂に足がめり込み、歩きづらかった。
賢一郎はボードの横に立ち、腕組みして海を見ていた。
哲也は背伸びし、彼の横に並んで海を見た。
透明度の高い青い海。沖のリーフでは波が崩れ、白い花を咲かせている。海面の所々でリーフが黒い頭を出し始めていた。
「潮が引いてしまったなぁ」
賢一郎はいった。
「こんなことなら干潮時間をチェックしてヨロンにくりゃよかったなぁ」
「そんなこといったって一月しか暇がとれないといったのはお前だぜ」
「そりゃそうだけどよ。くやしいな。あんなに吹いてんだぜ」
二人は海を見た。強風が海面に細かい皺をつくりながら吹き過ぎていた。
「しかたないだろ? 八時から乗ってるんだ。そろそろ昼飯にしようぜ」
そういって哲也は海に背を向けた。
階段を上って二人はプールの脇に出た。
プールにはだれもいない。水面の上を風が過ぎていく。プールの回りに植えられた椰子の葉が風に大きく揺れている。
夏なら色とりどりの水着を着た若い女性であふれているのだろうが。
二人はプールの横につくられているジャグジーに近づいた。
哲也は蛇口にかがみこむと栓を開いた。いきおいよくお湯が吹き出た。腹に響く音があたりにひびく。
賢一郎はウェットスーツのまま、ジャグジーに飛び込んだ。満面に笑みを浮かべて奇声を上げる。
哲也も笑いながら後に続いた。お湯はぬるかった。その温度がウェットスーツに染み込んでくる。小便をしたときに似てる、と哲也は思った。
ファスナーを開き、上半身を脱いだ。毛穴を塞いでいた潮がお湯に溶け出していくのがわかる。
哲也と同じように上半身を剥き出しにした賢一郎は息をとめるとお湯に潜った。髪の毛がゆらりとお湯の中で揺れた。
顔を出すと賢一郎は叫んだ。
「気持ちいい!」
哲也もお湯に潜った。頭を掻きむしり、髪の毛の間の塩分をおとした。息が続かなくなり、顔を出した。思わずため息が出た。
二人はゆっくりと身体を延ばした。
のばしたふくらはぎの筋肉がふるえた。つるかな、と哲也は思ったが大丈夫だった。
「へっ!」と賢一郎は笑うと叫んだ。
「課長の馬鹿やろうめ! ざまあみやがれっ!」
哲也はにやにや笑いながら後頭部をジャグジーのふちにのせた。顔は上を向き、どんよりと雲った冬空が見えた。雲は強風に乗り、南西方向に猛スピードで流れていく。目の端で椰子の葉が大きく揺れている。
哲也は目を閉じ、最高! とつぶやいた。
残してきた仕事、放ってきた恋人のこと。それらが一瞬、浮かんだが、強風に乗って遠くへと流れていった。
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Takehiro Yamada