博打など




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 たしか中島梓だったと思う。
 ギャンブルは好きだが、競馬には興味がない。自分が競走馬だったらいいかもしれないが、と。つまりプレイヤーであるならばというわけだ。
 かつてはわたしもそう考えていた。
 ゲームに影響を与えられる――コントロールできるからこそおもしろいのだ、と思っていた。
 ところがそれはどうやらゲームのおもしろさでしかない、と気づいたのは競馬をはじめてからだ。ギャンブル――いわゆる博打のおもしろさは別のものらしい。
 おもしろさといったら語弊があるかもしれない。
 ギャンブルの快楽。その深い体験。世界が崩壊するのにも似た感覚は――ゲームに影響を与えられない、コントロール不能であればあるほど深まる傾向があるようだ。祈りを感じるということ自体がそのことを物語っている。
 それはある種の神秘体験でもある。
 未来は予測不可能だ――その事実の前にわたしたちはどうすれば、いいというのだろう。
 もちろん、わたしたちは複雑になりすぎた。
 単純な赤黒で快楽を感じるようになるには、確率などの考え方を知ってしまっている。それでもそこに意味を見出せるかどうかは個人の思いこみの力しだいだが。ゲンをかつぐということを馬鹿にしてはいけない。そこに客観的な意味などなくても主観的には存在するのだから。その意味なくしてわたしたちは賭けることなどできやしない。
 ギャンブルの本質は賭けることだ。
 ゲームをプレイすることではない。
 そうであってもわたしたちが賭けるには何かが必要だ。的中すると予測を、なんらかの情報を――読みを。しかし、それは賭け、ゲームがスタートした瞬間に、すべては未来の不確定さに――運命と呼んでもいいものの前で剥き出しにされてしまう。
 そして。
 わたしたちは一度しか通過することのない未来に触れるのである。



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Takehiro Yamada